父の思い出

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10月になりました。
本当に暫くぶりに緊急事態宣言が解かれて、段階的に日常が戻る期待があります。
初日は台風16号が雨を降らせましたが、台風一過、夏が戻ったみたいです。

この夏、父が逝きました。

私も娘も8月生まれですが、今年の8月は我が家にとって何回も山場がやってくる夏でした。何とか落ち着いた頃合いを計るように逝去の知らせが来ました。

父は、倒れてから2年以上を寝たきりで過ごしました。

麻痺と拘縮が進み、胃ろうから入れる栄養も身体が受け付けず、倒れる前に少しずつ進んでいた認知症が一気に進行しました。
転院を挟み、コロナで面会が制限され、緊急事態宣言下で感染者はどんどん増え、身動きの取れないうちに天国に。
きっと今は体も軽くなって自由に動いているでしょう。

自由な父でした。

役人人生を40年近く務め、頻繁な転勤は、当時は当たり前だった一家転住。
一緒に暮らしている間は、滝川、稚内、北見、小樽、苫小牧、名寄、滝川を巡り、その後も室蘭、釧路、札幌、帯広、岩見沢、稚内、などに赴任しました。
子どもとしても、小学校3つ、中学高校2つの転校がハードだった記憶があります。
なので、自分の子供たちは中高一貫をというのは悲願でした。

子どもたちが入学した小学校を卒業した時は、なんだか驚いたり。

転勤族は、転勤族が住む官舎があって、その世界は異動が当たり前。
今でも先祖代々のとか、家を守るとか、すごく苦手なフレーズです。
土地にこだわる価値観が理解できないのです。
父は四男、母は五女の夫婦で、本家筋から離れているため、葬儀、法事、供養というものからも縁遠く疎い家族でした。

今もですが仏壇がない暮らしをしてきたので、ご先祖さまとの付き合いがわからないです。
そもそも北海道という土地柄は、余り先祖代々のという部分が薄いのですが。
しがらみがない分、自分自身の葬儀はドライで合理的にと思います。
父の葬儀も身内だけの小さなものにしました。

父は、仕事熱心でしたが、同時にスーパー多趣味でした。
本当は何が好きだったのか?
なんでも手を出すと驚く集中力でみるむる上達。コンクールで賞を取る頃には次の趣味に行っちゃいます。
集中期は、道具にも形にもこだわりました。器用で好奇心旺盛。
昭和のおじさんなので、タバコは吸うし、子どもは母に投げ放し。
たまにしか笑わず、口を開くと怖い。愛想も素っ気もなく、一刀両断。

一目置かれるのは当たり前みたいな空気を放っていました。
上司にいると緊張感を醸すタイプ。
弟の同級生たちは高校生の頃恐れていました。

そんな無愛想な父が、母と話す時だけ、よく笑いました。いい夫婦だったんだと思います。

昭和の時代、色々なものが流行ると、好奇心旺盛な夫婦はどんな転勤先でも一緒に何かやっていました。
社交ダンス、短歌俳句、民謡長唄、山菜取り、卓球。

私と弟は留守番です。

父だけ、ボウリング、ゴルフ、釣り、書道、篆刻、水墨画、デジカメ、、、、。

退職のお祝いを考えた時に趣味が移り変わり過ぎて、何をすれば良いのかわからない状態でした。
極端に痩せ型で持病はないけど虚弱だったので、健康には気を遣っていました、ヘビースモーカーだった父が老年期に禁煙したのはまさかと思いました。

健康機器や水、サプリメント、健康食品がうちには溢れていました。
アルカリイオン水を作る機械とタンクは転勤の度に一緒に持っていきました。
今振り返ると健康食品にも流行があったみたいで、ローヤルゼリー、食物酵素系のカプセル、漢方薬、自作で座薬を作ったり、シロップ、散薬、錠剤を飲んでいました。
へそ灸をしたりカイロで温めたり。
整体、マッサージ、指圧、鍼灸もしていました。
長くやっていたのは、電子バリと言う、もともと牛の体調管理に使う低周波治療器みたいなものを2本のペン型の針をつぼに当てるものでした。

私が鍼灸師になったのも、遠い昔に刷り込みがあったのかもしれません。

84歳までは持病がなく、主治医もなく、健康で過ごして、趣味のデジカメのために色々なところに出かけていました。
自由に過ごしていました。

脳梗塞で倒れた後、麻痺が大きく、拘縮が進み、ベッドに拘束されて1日過ごす事がとても苦痛だったと思います。
認知症が進んでいましたが、チューブを引っ張って取ってしまうのは、こんなものは嫌だと言う意志の表れだったのではと思います。

コロナがなかったら、もう少し頻回に行けたかなと思います。
診断書には敗血症と書いていました。

うちの中でやっている書道や篆刻は、始めると、一気に集中に入り込み、何も聞こえずひたすら書いて、ひたすら彫って。何回も何回も納得いくまで繰り返すので、こいつは凄いなと思いました。


自分が少しずつ年を重ねると集中するまでの助走に時間がかかり、集中は長く続かず、あの細い身体のどこにパワーがあったのかと思います。

私は、果たしていい娘であったかはわかりません。北海道を離れ、子どもたちも大きくなってからは、なかなか会えていませんでした。
今頃、今度は何を趣味にしているのかなと、8月みたいに晴れ渡った空を見つめて父を思うのでした。